神戸市水道局

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神戸の水道 120年の歴史

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神戸の水道は、1900年(明治33年)に日本で7番目の近代水道として給水を開始して以来、給水区域の拡大と施設の整備充実により質・量ともに安定した給水のための努力を重ね、2020年(令和2年)に給水120周年を迎えました。
ここでは、この120年間の水道事業の歩みを簡単にご紹介します。

1867年~
1893年

開港から水道着工まで

1867年(慶応3年)12月に神戸港が開港し、神戸には全国から人が集まり産業が栄えました。ただ、その一方で不衛生な井戸水の使用によるコレラなどの伝染病の流行をきっかけに、水道布設の機運が高まりました。
水道布設にあたっては巨額の費用が問題となりましたが、1893年(明治26年)に、内務省の雇工師であったイギリス人技師バルトンの設計による水道布設計画が市会を通過し、神戸に近代的な水道が建設されることになりました。

  • 開港当時の神戸港

  • 工事中の布引貯水池のえん堤

  • 完成した烏原貯水池

1897年~
1905年

創設工事

1897年(明治30年)5月に始められた水道創設工事は、水源を布引谷と烏原谷とし、給水区域は生田川と湊川の間(旧生田区のほぼ全域)、計画給水人口は25万人とするなど、当初の計画を変更しながらも佐野藤次郎技師を中心に全員日本人の手で進められ、1900年(明治33年)には奥平野浄水場で待望の通水式が行われました。神戸の水道の誕生です。
わが国では、横浜市、函館市、長崎市、大阪市、広島市、東京都に次いで、7番目の近代的水道の誕生でした。通水式の後も、烏原貯水池えん堤の建設などが進められ、1905年(明治38年)10月には水道創設工事全体が完成して竣工式が行われました。

  • 奥平野浄水場での通水式

1911年~
1921年

第1回拡張工事

給水開始後、水道利用家庭は増加を続け、新しい水源が必要になりました。1911年(明治44年)の調査で、武庫川水系の羽束川(はつかがわ)および波豆川(はずかわ)が水量・質ともに良好で淀川から水源を求めるより維持費が少ないことが判明し、水源として設計を開始しました。
その後も幾度か設計変更を余儀なくされ、第1回拡張工事が完成したのは1921年(大正10年)3月、実に10年の歳月をかけた大工事となりました。
こうして完成した千苅貯水池は現在でも神戸市内で最大の貯水池として、北区の北部を中心に水を送り続けています。

  • 完成した千苅貯水池えん堤

1926年~
1937年

昭和初期の状況

第一次世界大戦に伴う好景気で、神戸には多くの産業と人口が集まり、水需要も2倍に伸びました。この急激な需要増に対応するため、1926年(大正15年)に着工された第2回拡張工事では千苅貯水池えん堤のかさ上げや会下山配水場の新設などが行われ、1日最大給水量はそれまでの97,000立方メートルから171,200立方メートルに増強されました。
その後も続いた阪神間各都市の慢性的な水不足の解消のため、1936年(昭和11年)7月に、阪神間の3市13町村で阪神上水道市町村組合が設立され、淀川を水源とする拡張工事が進められることになりました。この市町村組合は、現在では「阪神水道企業団」に名称を変え、神戸・芦屋・西宮・尼崎・宝塚の5市の上水道を支えています。

  • 水道筋での送水管布設工事

1938年~
1944年

水害、そして戦災

1938年(昭和13年)7月3日から降り始めた雨は、4日夜半までに191.4ミリに達しました。その後も5日午前から正午頃まで41.5ミリもの豪雨が続き、総雨量は460ミリにも達しました。この集中豪雨は、水道が復旧するまでに約3ヶ月を要するという大災害をもたらしました。
水道施設は千苅から上ヶ原への導水管、上ヶ原から神戸市内への送水管をはじめ多くの配水管が寸断されたほか、北野・奥平野浄水場が泥に埋まり、布引・烏原貯水池にも泥や流木が堆積するなど、壊滅的な被害を受けました。
復旧作業は、県下各市町村、諸団体のみならず、大阪、京都など県外都市からも救援隊がかけつけ、献身的な活動を続けていただきました。

  • 布引貯水池復旧作業

また、戦争の影も次第に忍び寄ってきました。神戸では、阪神上水道市町村組合を通じて淀川水源から受水するため、1941年(昭和16年)12月に第3回拡張工事に着手していましたが、戦争が日増しに激化する中、1944年(昭和19年)には工事中断を余儀なくされました。

  • 神戸大空襲

1945年~
1961年

戦後の復旧と第3回拡張工事の完成

神戸の水道は、空襲で配水管網などに大被害を受け、終戦時には漏水率が80%にも達していました。戦後の再出発は、まず漏水防止の応急処置から始まりました。

  • 焼け野原となった市街地

中断されていた第3回拡張工事は1951年(昭和26年)に再開され、須磨・垂水地域での人口の急増に対応するため、垂水区名谷町まで延長17キロの送水トンネルを掘ったり7つのポンプ場を新設するなどの工事が行われ、1960年(昭和35年)にはすべての工事が完了しました。

  • 送水墜道の通水式

1962年~
1994年

神戸水道のさらなる発展

その後も、市域の拡大と給水人口の増加に対応するため、第4回拡張工事(1960~1968年)、第5回拡張工事(1967~1978年)、第6回拡張工事(1975~1997年)が相次いで実施されました。また、北神水道や六甲山上水道、工業用水道なども整備されました。

  • 第5回拡張工事の送水トンネル貫通

1985年(昭和60年)には、全市域の給水ネットワークが完成し、給水開始後85年の歳月を経て、念願の「市民皆水道」が達成されました。

  • 皆水道達成記念式典

1995年~
1999年

阪神・淡路大震災からの復興

1995年(平成7年)1月17日に発生した阪神・淡路大震災は、神戸市に壊滅的な被害を与え、水道も大きな打撃を受けました。市街地全域が断水した中、1日でも早く水を届けるため、水道局では他都市の支援や市民の協力を得ながら、不眠不休で給水活動と復旧作業を続けました。全市で応急復旧を完了させたのは、地震からちょうど3ヵ月後の4月17日のことでした。

  • 継手が抜け出た配水管

  • 全国からの応援給水

この地震の教訓をふまえ、1995年(平成7年)7月に、災害・事故に強い水道づくりを目指した「神戸市水道施設耐震化基本計画」を策定しました。この計画に沿って大容量送水管や大容量貯水槽の整備などの基幹施設整備事業等が進められました。

  • 大容量送水管 一次覆工状況

  • 大容量貯水槽

  • シールドマシン

2000年

給水100周年

神戸の水道は、創設以来さまざまな困難を克服しながら、市民生活の向上と都市の発展を支えるために拡張を重ね、2000年(平成12年)に給水100周年を迎えました。

  • 100周年記念式典

100周年を記念して、水道に対する理解をより深めていただくとともに市民とともに今後の水道について考えていく機会とするため、記念式典、シンポジウムなど、市民参加のさまざまな記念事業を実施しました。

2016年

緊急貯留システム・大容量送水管の完成

震災直後の平成8年に大容量送水管を整備する事業が開始され、平成28年3月、20年の歳月をかけて大容量送水管が完成しました。大容量送水管は市街地の地下にあり、高い耐震性と大きな貯留能力を備えています。また、大容量送水管の立坑は地震等の災害時に給水タンク車や消防車への給水、仮設給水栓による応急給水など防災活動の拠点となります。
大容量送水管の整備と並行して、緊急貯留システムの整備も進められました。災害直後に最小限必要な飲料水の確保のため、配水池への緊急遮断弁の設置や大容量貯水槽等の整備を行うというものです。給水区域を概ねカバーできるように半径2㎞毎に1箇所を計画とし、2016年(平成28年)に市内計62箇所の整備が完了しました。

  • 大容量送水管整備事業完成式典

  • 立坑内施設見学

「神戸市水道百年史」の発行

給水100周年までの水道の歩みを詳細に記した「神戸市水道百年史」(B5判・約1,200ページ)を発行しました。市民の皆さまには、中央図書館をはじめ各区の図書館や生涯学習センター等でご覧いただくことができます。どうぞご利用ください。