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神戸の水道の歴史

神戸の水道はいつからあるの?

慶応3年(1868年)に神戸港が開港したのをきっかけに、神戸には全国から大勢の人が集まるようになりました。産業は栄え、まちはにぎやかになりましたが、飲み水に井戸水を使っていたため、コレラなどの伝染病が流行しました。
そこで、きれいで安全な水が飲める水道をつくろうという声があがり、明治26年(1893年)に水道をつくることが決まりました。

当時の水道技術の先進国だったイギリスから技師バルトンに来てもらい、布引谷に貯水池をつくることになりました。当時の神戸の中心部にくらす25万人がきれいな水道水を使えるようになるという計画でした。

貯水池建設

工事は明治30年(1897年)5月にスタート。明治33年(1900年)に布引ぬのびき貯水池と奥平野浄水場、北野浄水場ができました。これが神戸のはじめての水道で、日本全国でも横浜市、函館市、長崎市、大阪市、広島市、東京都に次ぐ、日本で7番目の水道となりました。その後、人口の増加に対応するために大正8年(1919年)5月には、千苅せんがり貯水池をつくりました。千苅せんがりは今も神戸市内で最大の貯水池として利用されています。

神戸の水道の歴史

 

水害や戦争の影響

時代が昭和になると、神戸港の発展にともない神戸市の面積も広がりました。まちにはますます多くの人と産業が集まるようになり、同時に水の使用量も増えました。しだいに水が不足するようになったため、できるだけたくさんの水を送るための工事が行われました。昭和11年(1936年)7月には、淀川から水を取るために阪神上水道市町村組合(今の阪神水道企業団)がつくられ、神戸や芦屋、西宮、尼崎の4市に淀川からの水を送る仕組みができました。(現在は神戸・芦屋・西宮・尼崎・宝塚の5市の上水道を支えています)。しかし、実際に水が送られたのは昭和17年(1942年)からでした。

昭和13年(1938年)には大きな水害が発生。7月3日から3日間雨が降り続き、記録的な豪雨となりました。大量の雨を処理しきれず水道管がこわれ、貯水池には木が流れこみ、元にもどすまでに約3カ月かかりました。

昭和16年(1941年)ごろからは戦争がはげしくなり、空襲で水道管などがこわれてしまい、水道管の水もれも多くなりました。

水害

戦争が終わると人口が増え始め、水道を広げる工事があちこちで行われました。昭和60年(1985年)には、神戸市内のすみずみまで安全な水道水が届くようになりました。

平成7年(1995年)1月17日に起きた阪神・淡路大震災では、神戸の水道は大きな被害を受け、水道管がこわれて水が出なくなってしまいました。水道局では、全国の都市からの応援をうけて、給水車で運んだ水を配る給水活動と、水道を元にもどす復旧工事を休みなく続けました。それでも、神戸市全体ですべての復旧作業が終わったのは、地震から3カ月後の4月17日でした。

震災の教訓から、水道局では、いつかまた災害や事故が起きた時に、こわれない、止まらない、強い水道をつくるため、その年の7月に新しい計画を立てました。計画にそって、地震に強い大容量貯水槽や大容量送水管などをつくっていきました。

 

神戸市の水道は令和2年(2020年)で120周年を迎えました。ここまで見てきたように、長い歴史の中でこわれたり、止まったりすることもありましたが、多くの人の協力で立ち直り、今も神戸市民に安全・安心な水を届け続けています。

 

神戸の水道の年表

できごと
1892年(明治25年)水道をつくるための計画を立てた
1897年(明治30年) 水道をつくる工事を始めた
1900年(明治33年)布引貯水池、奥平野浄水場ができた
神戸にはじめて水道ができた(日本で7番目)
1905年(明治38年)烏原貯水池ができた
1917年(大正6年)上ヶ原浄水場ができた
1919年(大正8年)千苅貯水池ができた
1936年(昭和11年)阪神上水道市町村組合(今の阪神水道企業団)ができた
1942年(昭和17年)淀川の水を使い始めた
1962年(昭和37年)六甲山に水道ができた
1967年(昭和42年)千苅浄水場ができた
1985年(昭和60年)市内のすみずみまで水が届くようになった
1995年(平成7年)阪神・淡路大震災で大きな被害。雨不足で千苅貯水池の水がほとんどなくなった
1998年(平成10年)大容量送水管の工事を始めた
2000年(平成12年)神戸の水道 創設100周年
2001年(平成13年)阪神水道企業団のすべての水が高度浄水処理されるようになった
2005年(平成17年)布引ダム耐震補強工事が完成した
2016年(平成28年)大容量送水管が完成した
2020年(令和2年)神戸の水道 創設120周年